座右の銘

【己を縛るのは己のみ】

そもそも、私は「平和」だとか「自由」だとか「平等」だとかいう言葉を余り信用はしていない。

他の事は別の機会に述べさせて頂くとして、此処では「自由」について。

先ず、私は「自由」を不自由なものだと思っている。

勿論、我々はそれぞれの社会によって、様々な「自由」を保障されてはいるだろう。

そして、その「自由」が我々の生活を豊かなものにしてくれている。

しかし、その一方で現実には、様々な不自由さにストレスを感じてもいたり。

人はよく、その不自由さを嘆き、それを何かの所為にしたくなるけど、それで本当にいいのだろうか。

勿論、自分以外の何かの所為で、自分の「自由」が侵害される事はあるだろう。

その時には、その何かと戦わなければならなかったりもする。

しかし、その不自由さというものは、自らが「自由」であるからこそ、のものでもあると思うんだよね。

自分が不自由さを感じた時に先ず、その辺を見極める必要がある様に思う。

そして、その見極めが足りていないのではないか。

それが不要な争いを生んでいる様に思うんだよね。

現実として、一方の「自由」が他方の「自由」を奪ってしまったりもする。

その事に気付かずに、いや、気付いた上で、なのかもしれないが、最近は特に、一方的に自らの「自由」を主張する様な事が増えてきている様に思う。

私は、それを目の当たりにして「自由」を履き違えている様に感じるんだよね。

変な言い方になるが「自由」な「自由」は「自由」じゃない。

不自由な「自由」こそ、「自由」である、と。

だから「自由」になりたかったら、不自由になる必要もある。

しかし、その不自由さが、もし、他者から強いられたものだったら、当然に受け入れ難いものにもなるだろう。

だからこそ、自ら不自由になる事が大切なのではないか。

自らが「自由」である事が自らに不自由さを招き、自らが不自由である事が自らを「自由」に導いたりもする。

要するに、自分自身を「自由」にするか、不自由にするかは自分次第。 

決して自分以外の何かによるものではない。

その様な見方が少し、足りていない様にも思うのです。

また、自分の「自由」を相手に認めさせたいのであれば、相手の「自由」も尊重しなければならないだろう。

自分の「自由」を認めさせる為、相手に不自由さを強いる様であれば、それは如何に身勝手な「自由」になるか。

だから、相手の「自由」を尊重する為には、自ら不自由になる事も必要になったりする様に思う。

そして、その自らに課す不自由さを一言で表すと、『節度』という言葉になるのではないか。

「自由」には節度が伴う。

節度が伴わない「自由」は「自由」ではない。

要するに 「自由」になりたければ、節度が必要になる。

その節度を身に付ける為には、他者から強いられる不自由さではなく、あくまでも自主的な不自由さというものが大切。

その様な意味で自分自身は自分で縛る。

そうする事が自らを解放させる事に繋がるのではないか。

そして、それが本当の「自由」なのかもしれない。

そんな風に思ったりするのです。

勿論、私もまだまだ未熟者故、節度が足らない時もあるかと思います。

ただ、この言葉を座右の銘にする事で、出来る限り相手を尊重する事が出来れば、と。

それを、どれだけ出来るのか。

それが私自身をより「自由」にしてくれる。

自分が「自由」を求めるのであれば、自らに不自由さを課さなければならない。

矛盾するのかもしれないが、私はそんな風に思っている。