好きな言葉

【罪を憎んで人を憎まず】

この言葉は、昔の中国の学者さんで、儒教の祖と言われている孔子という偉い人の言葉。

また、聖書にも同様の記述があるとの事。

人が何か罪を犯した場合に、被害に遭った方は何を思うのか。

主に、二通りになると思う。

許すか、許さないか。

そして許さない場合の言葉としては、

『目には目を歯に歯を』

という言葉が私は思い浮かぶ。

逆に許す場合の言葉としては、

【罪を憎んで人を憎まず】

の言葉が思い浮かぶのである。

そして私は基本的に報復には否定的な考えを持っている。

だから私が【罪を憎んで人を憎まず】の方を好きになったのは、ある意味、当然ではあるだろう。

ただ、実際に理不尽な罪によって被害に遭った方は、その罪を許す事が難しくなったりもする。

人間の感情として、憎んでしまう事があるのは、仕方がない事なのかもしれない。

でも、報復では結局、加害者と同じ穴の貉になってしまう様に思うのです。

殺人事件などがあった際、被害者遺族の加害者に対する憎しみの声をメディアが取り上げたりする。

加害者への死刑を望む声。

私はそれに強い疑問を感じる。

勿論、罪を犯した以上は罰を受けなければならない。

しかし、その罰は法に則って課されるべきではないのか。

被害者遺族の感情に左右される様な事があってはならない、と。

もし加害者に対する死刑判決が下される際、被害者遺族の加害者に対する憎しみの声が反映されてしまったとしよう。

その場合に被害者遺族の加害者に対する復讐が為される事にはなる。

しかし復讐を為す事で加害者の愚行を認める事にもなりかねないのではないか。

そうなってしまっては、それこそ被害者は報われない。

味方のはずの遺族に裏切られるという事にもなる。

勿論、それは一つの見方にしか過ぎない。

しかし何よりも先ず、どの様な事情があろうとも、むやみやたらに他人を傷付けていい訳ではないだろう。

それが人間社会の不文律の様なものだと私は思う。

しかし時には、それを守る事が出来ない者も出てくる。

その際に、その様な者であれば、周囲の者が傷付けてしまっても構わないのか。

相手に傷付けられるだけの切っ掛けがあったら、周囲の者はその者を傷付けても構わない。

本当にそれでいいの!?

だとしたら、加害者側に被害者を傷付けるだけの理由があったら、傷付けても構わないという事にもなるのではなかろうか。

加害者を裁く事すら、否定をしかねない様に思うんだよね。

そして、それは加害者の愚行を認めてしまいもする。

要するに、同じ穴の貉になってしまう。

だから先ずは、あくまでも、どの様な事情があろうとも、むやみやたらに他人を傷付けてはならない。

その上で、他人を傷付けてしまう事があった場合には、法によって裁かれるべき。

人が人を裁いちゃいけないと思うんだよね。

そうする事で加害者の罪を問う事が出来る。

それが、被害者が加害者と同じ穴の貉にならない様にする事に繋がるのではないか。

そして【罪を憎んで人を憎まず】という言葉は、それを促す為の言葉だと。

勿論、言うは易し行うは難し、なのかもしれない。

だから、すぐには、そう出来なかったとしても仕方がないとは思う。

しかし、少なくとも、被害者側の方は加害者に課す刑罰の要望を司法に対して申す様な事はすべきでないと、私は思うんだ。

そして、もし、その様な要望が為された場合には、その要望を聞いてはならないとも思う。

要するに、復讐はすべきでないし、復讐を果たさせてしまってはならない。

例え凶悪犯の命であっても、憎しみによって、その命を奪う様な事はあってはならないだろう。

あくまでも、法によって裁かれるべき。

法によって裁く事で、加害者の因果応報とする事も出来るのではないか。

そして、もし、その法に不備があるのであれば、それは客観的な見地によって議論は為されるべきだろう。

厳罰化の議論は必要に応じて、他ですべき。

とにかく、復讐をさせてはいけない。

そして被害者側の人間を加害者と同じ穴の貉にしてはならない。

憎しみは新たな憎しみを生み出すだけ。

どの様な事情があろうとも憎しみを正当化すべきではない。

何処かで憎しみの連鎖を断ち切るべきだろう。

勿論、被害者側の方にとっては、幾ら、憎しみの連鎖を断ち切る為とは言え、何故、自分が、と理不尽に感じたりはするのかもしれない。

それでも憎しみを正当化してしまったら、それにより、身勝手な都合で自らの憎しみを正当化して、誰かを傷付ける者を生み出してしまう。

例え周囲に理解が出来なくとも、加害者の方で勝手に憎しみの正当化が行われちゃうんだよね。

例えば「あいつは嫌いだから殺しても構わない」と。

本当に身勝手な正当化なんだけど、加害者の立場では、そうなってしまったりする。

そして、その様に正当化された憎しみが犯罪を助長し、被害者を生み出す。

そんな悪循環に陥ってしまう。

被害者はその悪循環の被害者でもあるのではないか。

だから、その悪循環を避ける為には、どの様な事情があろうとも、憎しみは正当化すべきでないと思うんだよね。

確かに、すぐには悪循環を抜け出す事は出来ないのかもしれない。

それでも、少しずつ積み重ねていくしかないのではないか。

だから憎しみによる復讐はさせてはならない。

裁きは司法に委ねるべきと考える。

それに実際に死んでしまった被害者の方が遺族に対して、加害者に対する復讐を望むのか。

勿論、それを望む方もいるのかもしれないけど、望まない方もいると思うんだよね。

もし私が被害に遭って死んでしまったら、遺族に復讐はして欲しくない。

私の事よりも、自分の事を考えて、日々、前を向いていって貰いたい様に思う。

そう思えない方や、そう思わない方もいるでしょうが、実際に死んでしまった方が、どう思うのかは推測でしかないんだよね。

その推測で憎しみを正当化するのは如何のものか、と。

推測でしかないのであれば、許す方へ向かった方がいいと思うんだよね。

そして周囲の者は、その様な方へ促すべきだと思う。

被害者側の方々を、そういう方向へ導く事が、本当の意味での被害者の救済に繋がるのではないか。

その為の【罪を憎んで人を憎まず】だと。

私はそんな風に思っています。